それから瞬く間に数カ月が過ぎていった。
まだ暗い内から目を覚まし、顔を洗うと薄明の中農場への道をたどる。
農場の朝の仕事はいくらでもあった。
まあ、それは朝には限らないことだったが。昼間には昼間の仕事があり、夕暮れ時には夕暮れ時で仕事がある。ティムの言うとおり、人手はいくらあっても困らなかった。
家畜小屋のわらを取り替え餌をやり、畑に出ては水をやり、朝食用に卵を拾い牧場への柵を開ける。
一通りのことが済む頃にはすっかり日は昇って、農場の主が食事が出来たと笑顔で知らせる。
ティムが最初に請け合ったとおり、まかないの飯は美味くて量がたっぷりとあった。
季節ごとにたっぷりの野菜や果物、焼きたてのパンに卵に新鮮な牛乳やバターがいくらでも食べられた。
ジャンは始めはこんなに食べてもいいものだろうかと遠慮がちだったのだが、すぐにグラム一家の健啖ぶりには到底敵わないことを知った。
勝てるとしたらただ一人、ティムの母親くらいだった。
彼女だけがほっそりとした体躯を持ち、鉄の胃袋を持ち合わせていないようだった。それでもいつもにこにこと、皆が楽しく大いに飲み食いするのを見ていた。
「私は食べるのも作るのも得意ではなくて。でも美味しいものを食べる人を見るのは好きなの」
そう言って笑う表情は息子とよく似ていた。家族は皆それはそれは楽しそうに食事をとるから、見ているだけで充分幸せなのだそうだ。
「お義父さんもお義母さんも、息子たちもお嫁さんたちもみんなお料理が上手なのに私だけがどうしても駄目で、よく落ち込んだものよ。私ばっかり楽しくていいのかしら、ってね」
食べるばかりで申し訳ない、働いても見合うだけ働けてるのかどうか、とこぼしたジャンをそう言って慰めた。
そうは言うものの、彼女はジャンとは違い食べる量は小鳥がついばむほどだったのだが。この小柄な人からあの恰幅のいいティムやその兄弟たちがどうやって生まれてきたものかと不思議に思う。
「私はイーストシティからお嫁に来たのだけど、何をやっても不器用で、掃除も洗濯も針仕事も、何もかも駄目だったの。努力はしたのだけど、何か家事をする度に家の中で何かが必ず壊れるものだから、お義母さんも終いには諦めてしまったわ」
「それはまた」
それでも、息子たちも嫁たちもこの人をたいそう大事にしているように見えた。
もちろん、と頷いたティムが説明する。
「祖父さんが言ってたよ。お袋は心のごちそうを作る名人だって。心を満腹にする料理をたらふく食わせてくれた、いい嫁だったってね」
「心のごちそう?」
「お袋は、絵本作家だったのさ」
「昔の話だけどね。今は思いついた話をぽつぽつ話すばかりで」
本当、恥ずかしい話だわ。老婦人は頬を染めた。
それでいつも気が付くと子供たちが彼女を取り囲んでいたのか、とジャンはようやく合点がいった。
それから何回かは、子供たちに混ざって彼女の話を聞いたりもした。
畑仕事の合間に木陰のもとでだったり、しとしとと雨の降り続ける昼下がりだったり、時には他の大人も一緒だったりもした。
そう言った諸々を全てぐるりと巻き込んで、彼女は口先だけで子供たちをおとぎの国へと連れて行ってしまったものだった。
よくよく聞いていれば、ジャンもよく知っている古いふるい昔話を焼き直したものや子供の頃に読んだ絵本と同じ筋書きだったのだが、彼女にかかるとそれは途端に輝きが増すようだった。
「まるで魔法みたいっすね」
そう言ったら、ちょっと目をみはった後に、「ありがとう」と笑った。
その向こうで、まるで瓜二つの笑顔でにこにことティムが笑っていた。あ、親子だ。何となくジャンはそう思った。

リゼンブールの子供たちとは、ほどなくうち解けていった。元々子供たちにはよく懐かれる性分だったこともあるのでそう難しいことではなかった。
大人たちには不思議と遠巻きに見られがちだった。本当に、父は一体何をやらかしたのだろうと思う。
だがそんなことは初めから一向に気にしなかったティム・グラムが何くれとなく世話を焼いてくれ、ジャンもそれに感謝しながら労働に精を出していた。
そのうちに子供たちにまとわりつかれるようになり、じっとそれを眺めていた大人たちもようやく詰めていた息を吐き出すように歩み寄ってきた。
原因は間違いなく父にあり、その父と同じこの顔が悪いんだろうとジャンにも予測は付いたが、父のやったことについては全く想像がつかなかった。
いつかは聞いてみないとな、と思いながらも、ティムたちが何気なく取りなしてくれている空気を壊すには忍びなく、誰に尋ねることもできずにいた。
そんな中で、かたくなに態度を崩さない人物がいた。
それがたまに顔を合わせる程度の村人ならばまだよかったのだが、あいにくと何かと頼ることになる隣家に住んでいたのでジャンとしてはいたたまれないことだった。
ジャンが住み込むことになった錬金術師の家から少し離れたところにロックベル診療所があった。
診療所には医師と義肢装具士と整備士とを一手に引き受けるウィンリィ・ロックベルとその幼い息子が住んでいた。内科医だという夫は現在研修中と言うことで中央に出ていると聞いている。
ウィンリィ・ロックベルは、ジャンが初めてリゼンブールにやってきたその日に、道の真ん真ん中でにらみつけてきたその人だった。
ラストに紹介をされて、「…よろしく。何かあったら、言っとくれ」とは言ってくれたものの、いかにも不承不承と言った様子だった。いくら経ってもその目からは警戒心が消えない。
ジャンの姿を目にする度に、ありもしない行動の裏を探られるような、そんな視線を遠慮なく浴びせてくる。
さすがにジャンも辟易して、隣家には必要最低限の接触を心がけるようになった。

ある日のこと、ジャンは昼日中に錬金術師の家へと戻った。普段は農場へと行けば日が暮れきってしまうまでは戻らない。
朝食から夕食までをグラム農場でお世話になっていて、家にはほとんど寝に戻るだけだった。
それでラストの依頼を果たしていると言えるだろうか、と不安に思うが、1日みっちりと肉体労働で汗を流し美味い飯を腹に詰め込んだ後、次の日の朝も早いと来ればもう寝てしまうほかない。
たまに余力のあるときなどは埃をかぶったテーブルや床に雑巾をかけてみるのが精一杯で、使わない部屋には足を踏み入れてもいなかった。
使わない部屋、と言うのは主に主寝室だったり書庫だったり書斎だったりする。
錬金術師のプライバシーに興味がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に未知のものには近づきがたい気持ちが強かった。
伯父たちと共に住んでいた集落にも一人錬金術師はいたが、偏屈で変人だった。合成獣の研究をしていたとかで、始終得体の知れない動物の鳴き声や異臭が漏れていて、言うことを聞かない子供は錬金術師の家にやってしまうぞ、と言うのが村の大人たちのおきまりのお小言だった。
ここの錬金術師は、あまり子供たちに恐れられてはいないらしい。書庫や書斎と見まごうばかりに溢れる居間の本を読みに気軽に子供たちはやってくる。
錬金術師もそれを心得ていたものか、書棚には錬金術とは無縁そうな本がずらりと並んでいた。鮮やかな色彩で描かれた図鑑や繊細な挿し絵の絵本は子供たちの手の届きやすい下の方に排架されている。もしかすると、たいそう子供が好きな錬金術師なのかもしれない。
ジャンが今日珍しく昼間に戻ったのは、その子供のリクエストだった。
グラム家の末娘が新しい料理に挑戦しようとしたのだが、作り方がよく分からなかった。
どこかで作り方を見たはずだったが良く思い出せない。それならば錬金術師の家でだったかもしれない、とジャンが言った。
末娘もそれだ、と手を打った。じゃあ自分が農場に持ってこよう、と請け負ったのだが朝早くのことですっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
お天道さんも高く上った頃合いにようやく思い出し、作業の合間を見て駆け戻ってきたのだ。
薄曇りで家の中に射し込む光もおぼつかない中、ジャンはまっすぐに居間へと向かった。
その途中、耳元でダン!と言う重い音が響いて足を止めた。
はっと見ると、銀色のものが廊下の壁に半ばまで突き刺さっていた。
「…スパナ?」
そう認識した途端、血の気がすっと引いた。もう少しずれていたら、側頭部に直撃だった。
「…やっぱりそうだったんだ。思った通りだったよ。」
低い声はスパナが飛んできたとおぼしき方向から聞こえた。恐る恐る振り向けば、空色の双眸がジャンをにらみつけている。
ごくりと生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた気がした。
「あたしたちを油断させて、そうして事を進める算段だったんだね」
「な…、何の」
「しらばっくれるんじゃない。そうだろう、ロムアルド・ハボックの息子」
ひたりと向けられたレンチの先が鈍く光る。何でもない工具がこんなにも恐ろしく感じたのは生まれて初めてだった。
ウィンリィ・ロックベルは一段上がったところに立っていて、視線が長身のジャンと同じ高さにある。
身体は凍り付いたように動かなかったが、頭の中身はようようのろのろと働き始めた。彼女のいる場所に、あんな段差はあっただろうか。
背後は一層暗く、判然としない。そもそも、玄関から居間へと続く廊下に、人が立てるスペースがあっただろうか。
この家に来てから感じていた違和感が、不意に蘇った。あまりに漠然としていた上、昼間はほとんどいなかったために置き去りにしていたかすかな違和感のしっぽをつかみかけていた。
だがその前に、怒り心頭に発しているらしいウィンリィの誤解を解かなければ、と一歩前に踏み出した。
「動かないで」
全く予期していなかった方向から頬をかすめて硬質な光が伸びた。
表情のない艶やかな声はきっとラストだ。そう確信できたが振り向けない。
「一体どういうことなのかしら、ウィンリィちゃん、ジャン」
首筋にぴたりと硬くて細いものが当てられている。それが何なのかは分からなかったが、鋭い切れ味を持っていることだけはわかった。頬を血が伝っていく感覚があった。
「ラストさん」
あの婉然とした笑みを浮かべながら、ラストがジャンの隣に立った。鋭く伸びた爪の先はジャンに当てたままだった。
目で合図をされて、ウィンリィは渋々レンチを下げた。
「あなたも、何でこんな時間にこんな所にいるのかしら。しかも最悪のタイミングで」
「最悪?」
絞り出した声は、幸いみっともなく震えたりかすれたりはしなかった。敵意のないことを2人に示すため、両手を肩の上に上げた。
一度声を出してしまえば腹は据わった。聞けることは全部聞いてしまえ。そう覚悟を決めた。
だが、どこから聞いたものだろうか。ジャンは軽く天井を仰いだ。
「たまたまだよ、ラストおばさん。本当に」
玄関の方から第三の人物の声が届いた。ラストが軽く眉を顰めた。
「おばさんはやめてちょうだい、ティム」
珍しく呼吸の整わないティムが苦笑して肩をすくめた。
「さすがに足、速いねえ」
「ティムさん?何でここに?」
「君が家に戻ったって聞いたから、慌てて追いかけてきたのさ。追いつかなかったけどね」
「あなたのことだから途中で諦めてのんびり歩いてきたりしたんでしょ、どうせ」
「ひどいなあ。…まあその通りなんだけど」
頭をかいて見せながら、さりげなくジャンとラストの間に割って入った。すっとラストの爪がいつもの長さに縮んだのを見て、ジャンは目を瞠る。
「今日が往診の日だってことをすっかり忘れてたよ。すまないね」
にこにこと笑って謝罪するティムに、ウィンリィは何と言っていいか分からないようだった。
「往診って?」
「ティムさん…」
ジャンの当たり前の疑問に、ウィンリィは不安げな表情でティムをとがめた。
ティムは鷹揚に頷いた。
「ウィンリィちゃんが心配するのも無理はないと思うけどね。彼をそんなに警戒する必要は、ないんじゃないかな。ラストおばさんだって、その辺はもうちゃんと調べたんだろう?」
「…ええ。そうね。『その辺』というのが、彼がどの程度父親の影響下にあったのかと言う意味ならそうね。調べられる限りのことは調べてきたわ」
「ああ、悪く思わないでくれよ。ラストおばさんもウィンリィちゃんも、確実な証拠がないと安心できなかったんだよ」
「…何が、って聞いてもいいっすか?」
「君が、信用に値するかどうかだよ。」
さらりとティムは言い切った。
「まあ、ちょっと話してみれば分かることだとは思うけどねえ。君は、あまりにもお父さんとは違ったから」
だがウィンリィは納得できないらしかった。
「分からないじゃないか。あの男だっていかにも紳士然とした態度だったよ」
「そうだね。多分、悪い人じゃなかったと思うよ。やったことはともかくね」
なおも反論しそうだったウィンリィを手の一振りで黙らせて、ティムはジャンの背を軽く叩いた。
「お父さんと違って、彼はそれはそれは美味そうにうちの飯を食うんだ。うちの飯をうまいと言ってくれて、しかもお袋の話を喜んで聞いて、魔法のようだとまで言ってくれたんだ。その言葉に嘘はないと信じてる。それは、ロムアルド・ハボック教授とはあまりにかけ離れている」
ジャンはとまどった目をティムに向けた。ティムのまるまるとした顔の中で、目が実の息子を見るように細められた。
ラストが呆れたように溜息を吐いた。
「あなたの評価の基準はまるでグラトニーと同じね。変わらないわ」
「そりゃどうも。祖父さんの目は確かだったと思うけど、ラストおばさんはどう思う?」
ラストは答えの代わりに肩をすくめた。
「まあ、それは置いといて。彼にはお父さんが何をやったのか知る権利があるだろうよ。いつまでも隠しておけることでもないよ」

「その時が来たんだと、観念しようよ」
観念するのが誰なのかは、明言しなかった。

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