連れて行かれた家はそう大きくはないがかと言って小さくもない家だった。
錬金術師の家、と聞いてハボックはもっとおどろおどろしいものを想像していたのだが、思った以上に普通の家だった。こんな田舎にならどこにでもありそうな家だった。
ただ、長い間家の主が留守にしているというラストの言葉通り、庭や菜園らしき場所は酷く荒れていた。
「家の中の掃除なんかはたまに来てするんだけど、畑や庭のことは私にはさっぱりなの」
元は何が植えられていたのか判別もつかない茂みを見て嘆息する。まあそのすらりとした御手では無理だろうな、と密かに納得する。
「あなたは庭仕事なんかは出来る?」
「あーまあ、このくらいの広さだったら、多分」
リゼンブールに毛が生えた程度の田舎町にあった伯父の家では、自宅で食べる分を供給できる程度の畑があって、ジャンも良くその手伝いをしていた。
草むしりとか畝を整えるくらいなら何とかなるかな、と心の中で算段する。
「そう、頼もしいわ」
艶やかに目を細めてラストは笑う。
これまで見たこともないような美人だったが、この家の主との関係ははっきりしない。それどころか、この村に定住しているわけでもないらしい。時々戻ってきては家の様子を見に来るのだという。
それはそうだろう、とジャンは思う。田舎暮らしが到底似合いそうもない女に見えた。
家に鍵はかかっていなかった。気にもせずにラストは玄関をくぐりジャンを居間へと通す。
「…書庫が家の中心って珍しくないか?」
「残念ながら、ここが居間なのよ。待ってて、お茶を入れるわ」
唖然としてジャンは『居間』を見渡した。広めの書斎か、あるいは図書室だと言われても頷いただろう。だが、居間かと言われれば首を傾げた。
「錬金術師で活字中毒者だったのよ。あまり集めると床が抜けるわよって何度も言ってるのに、ちっとも聞きやしないんだから」
トレイにティーセットを載せたラストが戻ってきては愚痴をこぼす。茶碗もポットもこればかりはきれいに磨かれている。
ジャンはソファへ向かう振りをしてこっそり床をかかとで蹴ってみた。どうやら錬金術師はすでに手を打ってあるようだ。床下に補強が入っているに違いない。
ソファの上にも積まれた本とそっと避けてなんとか腰を落ち着けた。
「本当にごめんなさいね。ここも片付けたいんだけどきりがなくて」
「…今適当に寄せちまったけど駄目だったんすかね」
「そのくらいなら問題ないと思うわ。ちゃんと書庫か本棚に戻したいとは思うんだけど、私じゃ配置が分からないのよ」
「オレにも無理っすね」
「そこら辺に積んで放っておいて構わないでしょ。大事な本なら本人だってもっと丁寧に置いておくでしょうし」
日の当たる場所に積まれたままの分厚い書物は、背表紙が酷く褪色している。元は豪華な革張りに金文字が入っていたとおぼしき本も、今はそのタイトルを読むのも容易ではない。
「と言うわけで、ここの本は放置していてね。興味があったら読んでも良いけど、古本屋に売り飛ばしたりしたらものすごく叱られちゃうから。それが条件のうちのひとつ」
「はあ」
改めてジャンは首をぐるりと巡らせ居間を見た。
これだけの本を売ったら一体いくらになるのやら。父の蔵書目録、売却予想額付きを見せられたときのことがちょっと脳裏をよぎった。冊数だけでもあれを軽く上回っているに違いない。
「あと村の子供達が読みに来たりもするから、鍵はいつでも開けておいて。」
不用心な、と目を瞠れば、ラストはすぐにひらりと手を振って懸念を否定する。
「こんな田舎ですもの、泥棒も強盗もいないから大丈夫よ。昔は錬金術の研究盗みに入ろうなんて言う不心得なよそ者もいたけど、今はここに錬金術師がいたって事さえ知られてないから心配はいらないし」
「そうなのか」
「よそでも聞かなかったでしょう?リゼンブールに錬金術師がいるなんて事は。色々あったから、秘密にしているの」
だからあなたも、よそでは喋っちゃだめよ、とウィンクひとつ添えられた。本人が不在ならばますます吹聴するのはまずいだろう。
「分かった。他に気を付けることはありますか?」
ラストはしばし顎に白魚のような指を当てて考えた。
「それは追々分かると思うわ。多分、ね」

次の日の朝、ジャンは目が覚めた途端に空腹感を覚えた。
昨夜は台所や床下の食料庫を漁ってみたが、あまり成果はなかった。自家製らしき得体の知れない保存食や、ぱんぱんにふくれあがったトマトの缶詰と言った取扱に細心の注意の必要なものばかりが発掘されてしまった。茶葉とコーヒー豆だけはラストが来るたびに入れ替えているとのことだった。そのラストは列車の最終前にはリゼンブールを立っていた。
仕方がないので持ち歩いていた携帯食の残りと茶で簡素すぎる夕食を終わらせて、客間のひとつの埃を払って潜り込んだ。
起きたは良いが、さてどうしたもんだろうな、と水場に行き顔を洗いながら考えた。
「…とりあえず水でも飲んでおくか?」
澄んだ水はたいそう心地よかった。味もきっと都会の水よりはうまいに違いない。
駅前まで行けばパン屋や食料品やその他なんでも売ってる店もあったと思う。だが、そこまで行く間にこの腹の虫をなんとか押さえねばならない。
家庭菜園のなれの果てに食えそうなものはあるだろうか、と思い至ったところで玄関の呼び鈴が鳴った。
「おはよう、えーっと、ジャン・ハボックさん?」
「ええ、はい、そうっすけど…」
にこにこと人の好さそうな笑顔の男の顔に見覚えはない。
しかし男の腕に抱えられた瓶牛乳や卵、ベーコンの塊などの方が強力な引力でもってジャンを惹きつけた。
「ラストさんから聞いてるよ。昨日からここに住むことになったんだって?それでごあいさつにね」
「はあ、そりゃどうも」
男はジャンの視線に気付いてからからと笑った。軽く荷物を揺すり上げて見せ、お近づきの印にね、と言ってジャンを安心させた。
「よければこちらで一緒に朝食をと思ってね。こんなおじさんの顔を見ながらではあまりうまくないかもしれないが」
「いやそんなことはないっす!」
勢い込んで否定するジャンに、男は豪快に腹を揺らせて笑う。
「さて台所を借りようかね」
勝手を知っているらしく迷うことなくまっすぐに台所へと向かう。どちらが客なのか分からない状態で、ジャンも後から付いていった。
「自己紹介がまだだったね。おれはティム・グラム。農園をやってる」
ティムはまるまるとした指で器用に卵を割りベーコンを切り分けて鮮やかに調理を進めながら話をした。ベーコンもうす茶色の田舎パンも自家製だ、と胸を張った。
これはうちのかみさんから、と金色のマーマレードの小瓶を取り出して自分で一匙なめた。至福の表情で目を細める。
釣られてジャンも思わず指を伸ばしてなめてみた。甘さとほろ苦さが絶妙で、目を瞠る。
「こんなにうまいマーマレードは初めて食べました」
「そうだろうそうだろう。うちのかみさんはジャム作りの天才なんだ」
季節になったらラズベリージャムやリンゴのジャムも分けてあげよう、との申し出に素直に頭を下げた。
あっという間に並べられた卵料理もかりかりのベーコンも、見事な出来栄えだった。
「さ、冷めない内に食べよう。」
「いただきます」
一礼し、一口目を口に運ぶ。にこにことティムが見守る中、ジャンの食べるスピードは加速した。見た目に違わず、どれもこれもうまかった。卵はふんわりと口の中でとろけそうなのにしっかりと味は濃く、ベーコンの油は決してしつこくない。軽くあぶった薄切りの田舎パンは香ばしく、マーマレードの酸味が互いの味を引き立てた。
「すげえうまいっす!」
「ああ、全部うちの農場の自慢の一品なんだ。気に入ってもらえたようで嬉しいよ」
コーヒー豆をひきながらも笑顔を絶やさない。うまいものを食べることも、うまいと言って食べる人を見ることも大好きでたまらない、そんな様子だった。
「うちの祖父さんはそりゃあ食べることが大好きな人でね。うまいものを食べたい一心で農園まで作ってしまったくらいで」
「へえ」
「祖母さんがまたしっかり者で料理上手で、祖父さんを乗せるのがうまい人でね。はじめはそれこそできることをちょこちょこっと作る程度だったのに、だんだんと規模を広げてって今の大きさになったって言う話」
聞けば牛、羊、山羊に鶏と言った家畜はもちろん、果樹園から野菜畑までなかなか手広くやっているという。
「それだけ広いと手をかけるのも大変っしょ?」
「まあねえ。でも、それだけ実になるものも大きいから楽しいよ」
確かに、このうまい朝食が毎日食えるのならば惜しくはないかもしれない。ティムは、改めてジャンの頭のてっぺんからつま先までを眺め渡した。
「何すか?」
「うん、結構しっかりした体格だね」
「ええ、まあ」
身体が丈夫なのだけが取り柄です、とはさすがに言えなかった。
「リゼンブールでお父さんか錬金術師かの帰りを待つ以外に何かする予定はあるかな?たとえば、学校の教師とか、何か商売を始めるとか」
「いえ、これと言って何も…」
「そうかい。だったら、うちの仕事を手伝ってはもらえないかな?」
「え?」
「人手はいくらあっても足りないんだ。本当に忙しいときには村の人たちも応援に来てくれるけど、自分の所もあるからいつもって訳にもいかない。報酬はそう大して出せないがまかない飯だけは保証する。どうだろう?」
ジャンは目をしばたたく。
願ってもない申し出に、一も二もなく頷いた。ティムは笑顔が更に明るくなった。
「正直、この先どうやって暮らしたもんかと思ってたんで助かったっす」
「いやあ、それはよかった。体を動かすのは好きかい?」
「はい。頭使うよりはずっと得意っすね」
うんうん、と満足げに頷く。
「うちの祖父さんが言うにはね、『一番働いた人が一番美味い飯を食う』って話だよ。」
「あー…えっと、働かざるもの食うべからず、ってことっすか?」
「いやいや」
ティムは笑顔のまま首を横に振った。
「そんな小難しいことじゃないよ。単純に、身体動かして汗流した後の飯ほど美味いものはないだろ?」
その実感ならばジャンにも容易に理解できた。
どうやら食の悩みは解決したらしい。ジャンの胸中の曖昧模糊とした不安のひとつが解消した。

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