「所で、ヒューズ先生は準備室を乗っ取られても構わないんですカ？」
エドワードが職員室へと呼ばれて出て行ってしまったので、リンは尋ねた。雑談をしていたほんの十数分の間にも、学生達が入れ替わり立ち替わりやってきた。目的は主にエドワードに対する質問だった。手際よく対応していたので彼らが入り浸ることはほとんどなかったが、庇を貸して母屋を取られる状態は本来の部屋の主としては面白くはないのではないだろうか。
そう思ったのだが、涼しい顔でヒューズは答えた。
「いや？別に大したことじゃないし、しばらくの間のことだろうから気にはしないさ」
「しばらくの間？」
「そ。」
にやにやと人の悪い笑みで窓を開けて空気を入れ換える。
「そもそもコマンチの爺さんも元々はそううるさい方でもなかったろ？むしろほら、エルリック先生の前にいたあの若いのの方がぴりぴりしてて」
「あー、生徒も反応を面白がっテ、授業の終わりに教室の隅ででも聞けばいいものをわざわざ準備室まで押し掛けてったりしてましたかラ」
「お前らがそんなだからあの先生も胃に穴あけたりしたんじゃねえか？」
胃潰瘍を悪化させた彼の代わりにエドワードが採用されたのだったがそれはさておき。
「エルリック先生が来てからは誰はばかることなく準備室に招き入れて相手してましたよネ」
「エルリック先生もエルリック先生で、学生どもの相手するのが上手いもんだから始終誰かはいるよな。…特に、アルフォンス・ノヴァーリス」
「…ア」
「毎日ほとんど通い詰めだったからなあ」
それは今も変わらない。少しあからさま過ぎやしないだろうか、と他人事ながらリンは心配になった。
「ノヴァーリスはあの通りよくできた学生だからな、コマンチ先生も相手するのが楽しかったわけだが、当の本人はエルリック先生の方ばかりを訪ねてくる。前は主にコマンチ先生の方に質問に来てたのに、それが爺さんは少しばっかり面白くない。有り体に言って、拗ねちまった。」
「あーア」
リンは軽く天を仰いだ。窓の外に広がる青空はさわやかだ。
「それでどうでも良いような理由を持ち出して学生立入禁止にしちまったってわけだ。自分も会話に混ぜて欲しいなんていう風に素直になれなかったんだなあ、爺さん年が年だから」
「素直になられても怖いものがありますガ」
そう言えばアルフォンスは本人の知らないところで老若男女にもてることが多いという事実を今更ながらリンは思い出した。偏屈教師にもそれは有効だったようだが、本命には効きづらいらしいのが不憫だった。
「でもってエルリック先生もろともにノヴァーリスその他大勢も追い出してしまった訳なんだが、それに関してほれ、錬金術の実験助手のホルテンス嬢が」
「はイあの亜麻色の髪がチャーミングなはつらつとしタ」
よく錬成陣用のチョークを切らしている、いつも何か楽しそうなことを考えているらしいのをとびきりの笑顔でごまかしているお姉さん。
彼女の顔を思い出して首を傾げた。
「あーうんまあその彼女がそれ以来ずーっと不機嫌でな」
「はア」
「せっかくの目の保養がなくなってしまって非常に残念、若くて見栄えがよい男性二人が非常に親密に話をしている極上の光景なんてそうそう目にする機会なんてないのに、働く職業婦人のささやかな心の潤いがなくなって本当にがっかりだわー…と」
ヒューズはわざわざワントーン高い声を作って再現してくれた。その再現性にも呆気にとられたが、更に内容にもリンは唖然とした。
リンの様子に満足したのか、小さく咳払いをしてヒューズは調子を元に戻した。
「…とまあ、毎日毎日爺さんにちくちくちくちくこぼしているから、そのうち耐えきれなくなった爺さんが先生も学生達も呼び戻すから、ここの賑わいもそれまでだな」
ちょっとばかりさみしくなるかも、と小さく笑った。
エドワードとばかりではなく、この先生とも歴史の話をしたいと思っている学生は少なくはないことをリンは知っていた。だが、ヒューズの場合はそれだけでは済まないので迂闊には話が振れないのだ。下手な藪をつつけば家族自慢ないしは未確認生物語りが延々と続くことはすでに学生の間で知れ渡っている。
ふと、リンは何かが心の中で引っかかった。
「…ヒューズ先生はどうしてそう言った事情をご存じなんですカ？」
エドワードから聞いたと言うことはあり得ない。エドワードは恐ろしいほどの勘と洞察力を有しているのだが、どうも自分のことに関しては情報を受け取るアンテナが途端に劣化するらしいのは見ていて良く分かっている。そう言っためくるめく人間関係が自分を含めた錬金術準備室で展開していることは全く関知していないに違いない。
ヒューズは胸を張って言った。
「歴史家は何でも知っている！」
よく似たセリフを別の人からも聞いた気がする。とりあえず、教師が度し難い人種だと言うことは良く分かった。