初めて母の故郷へ足を踏み入れたのは、とてもよく晴れた日でした。
それまで暮らしていたラッシュバレーとは全く違う色の空を今でもよく覚えています。風も、金属やオイルのにおいではなく緑の草原を渡ってきたにおいを乗せていました。
母にそれを伝えようとしましたが、母はずっと真っ直ぐに前を見詰めたままでした。
前日に電話を取った時からずっとそうでした。真っ白に顔色をなくし、とるものもとりあえず列車に飛び乗ってリゼンブールまで来たのでした。
理由も聞けぬままに初めて見るラッシュバレーの外の風物に半ば気をとられながら、母の様子が気になって仕方がありませんでした。
物心付いた時から母は表情をコロコロと変え、よく笑いよく怒る人でした。こんな強張った表情の母は初めて見るものでした。
リゼンブールの駅に降りた時も、私の手を引いて緩やかな坂道を登る時も、歯を食いしばり顔を昂然と上げて、ほとんど何も言わずに歩いていました。私の顔さえよく見てはいなかったでしょう。
母の実家に着くと、私と母は黒い服に着替えました。普段の作業着とは全く違う黒いワンピース姿は、蒼白な顔色もあいまって母を別人のように見せていました。
見たことのない母の姿に、とまどいを隠せませんでした。その時ようやく母は私の目を見て、ちょっと笑って言いました。
「良い子にしててね、バート」
こくりと頷くと、曾祖母も頭を撫でてくれました。
母と祖母に連れられて、村の墓地へと連れて行かれました。
とてもよく晴れてどこまでも高く高い空の下に、その人はぽつりと立っていました。
実際は周りに大勢の人もいて、それぞれに挨拶も交わし皆一様に死者を悼んでいたのです。
それなのに、私には彼がたった一人取り残されているように見えたのです。
「エド」
母が彼に声をかけると、その人は振り向いて笑いました。
「ウィンリィか」
こちらを向いて初めて、その人が金色の目をしているのだと分かりました。
そして、名前を呼ばれた途端に母の目からは涙がぼろぼろと流れました。本当に、洪水で一気に堤防が決壊したかのように突然でした。
エドと呼ばれたその人は、予測が付いていたらしく、それでも困ったように苦笑しました。
「ほら、あんまりいきなり泣くからバートも驚いてるじゃないか」
むしろ私の名前を知っていたことにびっくりして、ついまじまじとその人の顔を見てしまいました。
私から見れば大人の人でしたが、母より10才は若く見えました。(母も大層若く見える人でしたから、何も知らない人が見ればその差はもっと小さく見えたでしょう)
エドは、母にハンカチを渡すとかがんで私と視線を合わせ、顔を覗き込んできました。
「ずいぶん大きくなったな、バートランド。っつっても覚えてないよな、前に会ったのはお前がまだ目も開いてない頃のことだったし」
「そうよね、整備に来なさいって言ってもなんだかんだで来なかったものね、あんたは」
渡されたハンカチで涙を拭い、ついでに洟までかんだ母が言いました。
懸命に堪えようとはしていましたが、涙声のままでした。言葉を継ごうとして、また後から後から涙は落ちてきます。
「…ウィンリィ。アルに別れを。バートも祈ってくれないか?」
そう言って示された棺には、男の人が横たわってました。
母と同じ年頃の金髪の人でした。
「眠ってるの?」
まだ死の概念がよく分かっていなかった私は、そう質問しました。
こんな天気の良い日なら、良い風の吹く所なら午睡をするのも気持ちよさそうだ、と思ったことも確かです。
何よりも、眠るその人の顔はひどく穏やかでした。
エドは少し考えた後、答えました。
「そうだよ。もう2度と目を覚まさないけどな」
「どうして?」
母が小さく私の名を呼んで止めました。エドは静かに笑いました。
「どうしてだろうなぁ」
どこか困ったように言いました。
「本当に…どうしてかしらね」
「お前も。あんまり泣くなよ。ほらもうぼろぼろじゃないか。」
「あんたが泣かないからじゃないの。そんな辛そうな顔で笑うくらいなら泣きなさいよ。本当にもう」
「泣いたらアルが眠れないだろ、うるさいって起きてくるかもしれないじゃないか」
「起きればいいじゃない。…そうよ、どうして起きないのよ」
「ウィンリィ」
曾祖母がとがめるように言いました。エドは静かに首を振りました。
母は、棺の中の人に言いました。
「エドが泣けもしないでいるって言うのに」
「…ウィンリィ。もう充分だろ」
「何がよ。あんたは」
「アルは、この先の永劫に付き合う必要はなかった。違うか?」
その言葉を聞いて、母は声を上げて泣きました。
エドは号泣する母を抱き寄せて、子供をあやすようにその背を撫でました。
「少なくとも、こうして泣いてくれる奴がいるんだから悪くはないと思うよ。…アルにとっては」
「いい訳…っ、ないでしょ!!あんたみたいなの残していかなきゃならないんだから!」
「そりゃどういう意味だ」
「そのままよ!ああもう本当にバカよ、大バカよ!あんたもアルも!」
「…ああ、それはその通りだな」
そう言って、やっぱりその人は笑うのでした。

それから、私と母はリゼンブールで暮らすことになりました。
曾祖母の家(つまり母の実家)で、何故かエドワードもその養子のトニー・グラムも一緒でした。
トニーは私よりひとつ年上で、のんびりとして気の良い彼とはすぐに仲良くなれました。
エドワードの家は少し離れてはいるけれども、隣にありました。なにぶん田舎のことなので、家と家とが離れていることが多いのです。
私たち5人は、ずっと前から本当の家族だったかのようにすんなりと馴染みました。
しばらく経ってから、何とはなしに疑問に思ったので私はエドワードに尋ねました。
「エドはボクの新しいお父さんになるの?」
彼は飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出しました。
「…バート?どこでどうしてそう言うことになるんだ?」
「みんなそう言ってるから」
「…さすが田舎。」
遠い目になりながら呟きます。
それから真面目な顔になって言いました。
「バートはお父さんが欲しいのか?」
私はちょっと考えて、首を傾げました。気が付いた時には、私には父親がいませんでしたから今更「お父さん」と言われても実感がなかったのです。
「オレがバートの父さんになることは絶対にないな」
「そうなの?」
言い切られてしまうと、何だか寂しい気持ちになりました。
それが分かったのか、エドワードは私の頭をぽんぽんと撫でて言いました。
「けどお父さんらしきもの、にはなれると思うぞ」
はちみつのような金色の瞳が笑います。私はその目の色がとても好きでした。
「オレはバートのお父さんらしきもので兄さんらしきもので、ひょっとすると弟らしきものにもなるかもしれない。それじゃ駄目か?」
「だめじゃないよ!だめじゃないけど、それって何?」
うーん、としばし考え込んだ後。
「家族、じゃないか?」
その答えはとても素敵だと思いました。

エドワードの言葉の本当の意味を理解するのは、それから何年も経ってからのことでした。
曾祖母が天寿を全うし、私の背が伸びて母を追い越しても、彼の姿は何一つ変わりませんでした。
私が15才になって、「もう自分でものを考えられる歳だろう」と言って理由を教えてくれました。
彼が本当は母と同じ歳だと言うこと。
卓越した力を持つ錬金術師であると言うこと。
そうして、錬金術の結果、不老不死の身体になってしまったこと。
遠い昔話を語るように、ひとつひとつ教えてもらいました。
私がこの村に来てから彼は錬金術を一切使っていませんでした。
「使うのが怖かったんだ」
彼は鋼鉄の右手を見て言いました。
「また間違いを繰り返すんじゃないかって。…それが怖くて、オレはお前の母さんにオレを見張っていてもらっていたんだよ」
「間違いって…」
「死者を、復活させること。…出来ないと分かってはいても」
胸の前で手を合わせ、神妙な顔つきで目を閉じて。
けれども何も起こらずに、彼は目を開けて笑いました。
「分かってはいても、覚えているんだ。人体がどんな風に構成されているのか、魂がどう存在していたのか、それらをどう結びつければいいのか。…知っているから、出来るんじゃないかと錯覚してしまいそうになるんだ」
「そこまで分かっているのなら、可能な気がする」
エドワードがどんなに優秀な錬金術師なのかはその時は分かっていませんでした。けれども、聞いている話から何となくですがそのレベルの高さは窺えたのです。
「いや、絶対に不可能だ。もう魂がこの世のどこにも存在していない。存在していないものの錬成は無理だ」
「…そうなんだ。」
生き返らせたい人は、誰なのか私には聞くことができませんでした。
おそらくは、あのよく晴れた気持ちの良い日に葬られた金の髪の人なのでしょう。
その時から、彼は錬金術を使わないできたのですから、そう考えるのが穏当です。
あの人が、エドワードにとってどんな人だったのかはエドワードにも母にも聞けませんでした。
弟だと言うことは聞いていましたが、それ以上のことは聞いていません。
時折、墓参に行くエドワードや母の姿を見たのですが、二人とも哀しいとか寂しいとかそんな言葉では言い表せないようなひどく透き通った表情をしていました。
それから、私は機械鎧技師になるための本格的な修行をするためにリゼンブールを出ました。
ほぼ同時に、エドワードも自分の家へと戻りました。
「もう大丈夫だと思うから」と言うことでした。母も、反対はしませんでした。

母の伝手で修行を終えた私は、数年後にリゼンブールに戻りました。
向こうで知り合った妻を紹介すると、皆喜んでくれました。
妻は最初、エドワードの名前と姿に怪訝な顔をしました。よそでは、「エドワード・エルリック」、鋼の錬金術師と言えば伝説的な存在だったからです。
エドワードは否定はせずに、けれども積極的な肯定もせずにただ笑っていました。
その内に、妻も彼はそう言うものなのだと納得したようでした。
それから、妻は身篭もりました。
孫の生まれてくる日を誰よりも楽しみにしていた母ですが、予定日まで後わずかという時に事故に遭い、急死しました。
あまりに急なことでした。
私も呆然となり、悲しみに暮れましたがそれ以上に、エドワードの衝撃は大きかったようです。
弟の葬儀の時は母が彼の代わりに泣きました。その母が亡くなったので、どうして良いのか判らないようでした。
だから私は、彼に言いました。
「…生まれてくる子供が女の子なら、母と同じ名前を付けようと思う」
声もなく、涙も流さずに慟哭していたエドワードは顔を上げました。
言葉が心に届くまで、普通よりもやや時間がかかったようでした。
ようやく意味が分かると、穏やかに笑いました。
「良いんじゃないか?バートの好きにすると良い」
「反対されると思ってた」
「どうして」
生まれてくる子は母の代わりではない。身代わりのようなことをするなと叱られるかと思ったのです。
「良い名前だぞ、きっと優しくて強くて、よく泣いてよく笑う子になる。そう願いを込めるのは、悪いことじゃない」
はっとして私は彼の顔を見ました。
彼はもう、母がこの世のどこにもいないことが分かっていたのです。
そうして生まれてくる子に最大限の祝福を贈ろうとしてくれているのです。
果たして、生まれてきた娘に私は母の名前を付けました。

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バートランド・S・ロックベルは、我が子がそのまた娘に「ウィンリィ」の名前を付けることは予見していなかった。
娘の娘も、当然のように女の子が生まれた時に「ウィンリィ」と付けた。
さすがに隣家の錬金術師も、「そこまでこだわらなくても良いんじゃないか」とバートランドの孫に言った。
孫娘は、襁褓の中の娘を見て笑う。
「いいのよ。」
幼馴染みの面影をどこかに残したウィンリィ・ロックベルに、エドワードは首を傾げる。
「いつか私もエドを置いて死んでしまうけど、「ウィンリィ・ロックベル」は残るのよ」
ねえ?と上機嫌に笑う赤ん坊に話しかける。
「最初のウィンリィもじいちゃんも、母さんも私も。そしてこの子もいつかは死んでしまうけど、受け継いできた何かは必ず残るの。その印に、女の子には「ウィンリィ」って付けようってずっと決めていたの」
「…ウィンリィ」
「命は続いていくの。あなたを一人にはしないわ」
ウィンリィにとって、エドワードは父のようでもあり兄のようでもあり、そして今や弟のようでもあり子供のようなものでもある存在だった。
生まれた時からの大切な「家族」だった。
生まれたばかりの小さなウィンリィにとっても、きっとそうなるだろう。そう確信していた。
エドワードは、小さな声で「ありがとう」と呟いたようだった。

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