「おなかすいた…」
中央(セントラル)の何もない空き地でグラトニーはぼんやりと空を見ていた。
「お父様」が死んでしまってから、グラトニーにはやることがない。
「お父様」はグラトニーにやるべき「役割」を教えてくれた。
「お前はその『役割』から解放されたんだ」と、エドワードは言ったがグラトニーにはよく分からない。
エドワードの中には「お父様」の全てが溶け込んでいる。グラトニーには、本能的にそれが分かっていたから「お父様」を死に至らしめたのがエドワードだとしても彼を憎むことは出来なかった。
「お父様」が死んでしまったことは哀しかったが、同時にそれは「お父様」が解放されたことにほかならない。
エドワードが言うように、「お父様」も「お父様」の「役割」から解放されたのだろう。
そう言ったらラストは微笑んで頭を撫でてくれた。だからそれは間違っていないのだと思う。
「おなかすいた…」
口をついて出るのはそればかりだった。
他人が聞けば聞こえが悪いが、今現在彼の保護者であるところのエドワードが、食事を与えずに虐待しているという訳では決してない。
あるいはそれは小さな子供が「構って欲しい」と言えずにいるのと同じようなものだった。
いつも世話を焼いてくれるラストは用事で中央を離れている。
エドワードは何かと気にかけてはくれているのだが、どうしても忙しい。
いまだ政情は不安定でテロは頻発していて、軍務に就くエドワードは奔走している。
国境沿いの問題をどうにか収めてきたばかりだというのに、今度は国内の方が暴走し始めやがった、と毒づきながら1時間の仮眠と軽食を摂って軍部にとって返したのが今日の昼過ぎのことだ。
不老不死の身ではあるけれども、疲労も病気も怪我も普通の人間同様にあるのに無茶ばかりする。
疲れ切っているだろうに、笑って「行ってくるな」と言って出て行くエドワードに、グラトニーは何も言えなかった。
ただひらひらと手を振って見送ることしかできなかった。
本当は彼を手伝えればいいのにとも、そうでなくてもねぎらうことくらいは出来ればと思う。
けれども、グラトニーはどうしたらいいのか分からない。
そうして毎日のように、この人気のない何もない空き地に来て、ぼんやりと空を眺める。
考えても答えの見付からないことが浮かび上がりそうになると、口をついて出るのが「おなかすいた」だ。
そういう風に創られたのだ、とラストは言う。
そう言われたときに、エドワードが痛みをこらえるような顔をしたのがグラトニーの記憶に残っている。
それが忘れられなかったので、グラトニーはエドワードの傍にいた。
「アルのいるリゼンブールならここより安全だから」
そう言われても首を振って中央に残った。
「リゼンブールの方が食べ物もあるし空気も良いし、田舎だからテロもないし、それにアルの方が優しいぞ?オレきっと構ってやれないし」
「それでもエドの傍にいる」
言い張る自分に、エドワードは頭を掻いた。
「グラトニー。エドの迷惑になるわ」
ラストの言葉も、決心を揺るがすことはなかった。
最後にはエドも首を振って、「それじゃあ好きにすると良い」と言った。
「でも危なくなったらちゃんと逃げるんだぞ」
ホムンクルスの自分が危なくなるのは相当な事態だと思ったが、素直なグラトニーは頷いた。
「おなかすいた…」
「そうなの?」
何回目かの呟きに、返るはずのない答えが返ってきた。
びっくりして声の方向を見れば、小柄な老婦人がちょこんと立っていた。
手には白い布のかかったバスケットを持っている。
「おなか、空いてるの?」
「う…うん」
「だったら、これ食べない?」
そう言ってバスケットを差し出した。
「でも人は食べちゃダメだってエドに言われてる」
グラトニーの答えに、老婦人は首を傾げた。
そうして「人のものを食べてはいけません」と言う意味だろうと常識的な補完をして、にっこりと笑った。
「おうちの人の言いつけを守ってるのね。えらいのね」
褒められてグラトニーは嬉しかった。
「これは私のお弁当なのだけど、食欲がなくて食べられないの。私の代わりに食べてくれないかしら」
「いいの?」
「ええ。捨ててしまうのももったいないでしょう?だからお願いしたいの」
布を取り去ると、きれいに詰められた美味しそうなお弁当が姿を現した。
「じゃあ、いただきます」
「ええ、召し上がれ」
老婦人は嬉しそうに目を細めた。
バスケットの中身はあっと言う間に空になった。
「ごちそうさま〜」
「きれいに食べてくれたわね。どうもありがとう」
老婦人がにこやかに礼を言った。
「あなたはいつもここにいるのかしら?」
尋ねられてグラトニーは頷いた。
「じゃあ明日もお弁当を持ってここに来てもいいかしら。」
「うん、いいよ」
「ありがとう。ではまた明日ね」
空のバスケットを手に帰る老婦人を、グラトニーは見送った。その時、不思議と空腹感を忘れていた。

帰宅してからその深夜、帰ってきたエドワードに何か変わったことはなかったかと聞かれた。
それで素直に昼間の出来事をグラトニーは報告した。
「この食糧難に…?」
首を傾げて呟いた。
エドワードの身内を狙う犯罪者か、との懸念もかすめたが、エドワードの様子に首を傾げているグラトニーからきな臭さは感じ取れない。
肩の力を抜いて、笑いかける。
「ちゃんとお礼は言ったか?」
「あ…」
「人にものをもらったときにはありがとうって言わないと。」
うっかり忘れていた。
「明日も会うんだろう?」
「うん。明日は忘れないでちゃんとお礼する」
「ああ、そうしろ」
エドワードは笑って手を伸ばし、グラトニーの頭を撫でた。忘れないおまじないだ、と言って笑った。

それから毎日、空き地でグラトニーはお昼に老婦人の手作り弁当を食べた。
「物騒だからと言って家に籠もっていても気が滅入るばかりだし、気晴らしにと思って」
老婦人はそう言って飽きもせずに通い、弁当を持ってきた。
そうしてグラトニーが残さずきれいに平らげるのを見ては嬉しそうにしている。
グラトニーは気にもしなかったので彼女の身の上の詮索もしなかったが、それがまた老婦人には心地良かったようだった。
「私の夫も息子も、食の細い人達だったから、あなたのように食べっぷりのいいのは見ていて気持ちがいいわ」
ある日思わずそう言ったのを、珍しくグラトニーが拾って問い返した。
「旦那さん?息子さん?」
「ええ。二人とももういないけど」
「そう」
鶏の唐揚げを食べかけのまま、グラトニーは呟いた。
「お父様も、おなじ」
「あなたのお父様?」
「うん。もういない」
「そう…」
「あ、でもエドもラストもいるから」
「ご家族ね。」
「うん、だからひとりじゃない。でも」
お弁当のバスケットを持つ老婦人は、静かに笑った。その目が哀しそうな諦めきったような色を浮かべていた。
「ご家族がいるのは良いことだわ」
大事にしなさいね。そっとハンカチを取り出して口元の汚れを拭ってくれた。
「おばあさん」
「なぁに?」
「おばあさんも、エドもひとりみたいだ」
はっとしたように老婦人は手を止めた。
「…そうね。でも、今はあなたがこうしてご飯を食べてくれて、話も聞いてくれてるわ」
笑った顔が今にも泣き出しそうだった。それは時々エドワードの見せる表情によく似ていた。
「食べているときに変な話をしてごめんなさい。明日も来てくれるかしら?」
もちろん、グラトニーは頷いた。

そうしてまた毎日毎日、グラトニーは老婦人とお昼ご飯を食べた。
その内にグラトニーが食べている間に老婦人も少しずつつまんで食べるようになり、また色々な昔話を聞かせてくれたりするようになった。
自分の話をすることはほとんどなかったが、老婦人が自分の祖母から聞いた話だと言って聞かせてくれる話は今までそう言ったものと縁のなかったグラトニーには新鮮で面白かった。
実際には、グラトニーは彼女や彼女の祖母よりも更に年上だったのかもしれないが。
グラトニーが「おなかがすいた」と呟くことは、いつの間にかなくなっていた。

その日、いつものようにグラトニーは空き地で老婦人を待っていた。
彼女は決まった時間に遅れずにやってくる。
品のいい白髪に乗せたベージュの帽子がひょこりと角から現れるのを、いつしか心待ちにしていた。
けれどもいつもの時間になっても彼女は現れなかった。
代わりに来たのはエドワードだった。
仕事があるはずなのに軍の青い制服を着ていなかった。
「おいで、グラトニー」
そう言って手を差し出した。
「どこに?」
「おばあさんの所に」
それ以上は言わずに、エドワードはグラトニーの手を引いて歩いた。
グラトニーも大人しくエドワードの後を付いていく。
黒い上着を着ているが、いつもの赤いコートは着ていない。
上着の形もいつもとは違うし、その下には白いシャツを着てネクタイを締めているのは初めて見る。
連れて行かれたのは、墓地だった。
エドワードは、知らない女性に一礼すると、グラトニーを促した。
おそるおそるグラトニーは棺に近付いた。中には、老婦人が横たわっている。
「お別れを」
老婦人の顔は安らかだった。良い夢を見て眠っているだけのようにも見えた。
「おばあさん」
何と言って良いのか分からなかった。
死んだ人なら今まで何人だって見てきた。
食い殺してきたのだって数え切れない。断末魔の声を上げ、食い殺される恐怖に歪んだまま事切れた顔が今まで見てきた死体の顔だった。
「もうおばあさんには会えないんだよ、グラトニー。だから、最後の挨拶をするんだ」
エドワードの声がどこか遠くで聞こえた。
「おばあさん」
手を伸ばそうとして触れることは出来なかった。
触れる前に、もうそこには生きた人間はいないことが分かってしまった。
もう二度と会えない人に、何と言っていいのか分からなかった。
棺の中、花に埋められるように眠る彼女は孤独には見えなかった。
どこか満ち足りたようにうっすりと微笑んでいた。
簡素な葬儀が終わり、棺も土の下に埋められた後、女性が深々とエドワードとグラトニーに頭を下げた。
そしてグラトニーを見て涙の残る目で笑って言った。
「本当は中央ではなくて私の方に引き取りたかったのだけど」
彼女は西部の地方都市の名を挙げた。
「中央は不安だし、こちらなら親戚もいるからと勧めたのだけど、こちらに大きな丸いお友達がいるから残りたいっておっしゃって」
間違いなくそれはグラトニーのことだろう。
「大叔母様はご家族が戦死なさってからずっとふさぎがちだったので心配だったんです。私も近くに住んではいないからなかなか会えなかったけど、でも、この頃は表情も明るくなって」
「ご病気はずっと…?」
「ええ、お若い頃からのなので。でも最期は眠るように安らかで。…きっとあなたのおかげだと思います」
彼女はグラトニーの手を取った。口元が大叔母に少し似ている。
「ありがとうございます。あなたが大叔母様の傍にいてくれたから、きっと大叔母様も寂しくなかったと思います」
ありがとうございます。繰り返す彼女をグラトニーは困惑してみていた。

「エド」
帰り道、グラトニーは夕日で朱金に染まったエドワードの髪を見ながら言った。
「ん」
「おなかがすいた」
「帰ったら飯がある…」
振り返りながら言いかけて止めた。
「おなかがすいたよ、エド」
ぽろりぽろりと、後から後から涙が流れた。
グラトニーの胸の中は空っぽで、ぽっかりと穴が空いたようだった。
「おなかがすいたよ」
それを他に何と言い表せばよいのかグラトニーは知らなかった。
後から後からあふれてくるものがあるのに、空隙は埋まらない。
老婦人の作ってくれた弁当は、決して量は多くなかった。だが、それを食べているときには空腹感は満たされた。
「グラトニー」
「おばあさんに、もう会えないと思うと、おなかがすくんだ」
エドワードは痛ましげに眉を顰めた。
そうして何かを言いかけ、珍しく躊躇した。
「…おばあさんに、また会える」
意を決したように、そう言った。
「本当?おばあさん、生き返る?」
「いいや、そうじゃない。死んだ人間は生き返らない。そうじゃなくて、お前がいつかおばあさんに会いに行くんだ」
手袋を外して左手でグラトニーの涙を拭った。
「お前が人間になれば、いつかあのおばあさんと同じ所へ行く。ただ、それまでの間にお前はもっとたくさんの人に会って、たくさんのことを経験する。」
グラトニーはエドワードの金色の瞳に見入った。生まれて初めて見たような、不思議な目だった。
「そこに行き着くまでには長い時間がかかる。その間、お前はその飢餓感を抱えたままかもしれない。あるいは、それを埋める他の誰かに会うかもしれない。それは分からない」
「人間になれば、おなかがいっぱいになる?」
「なるかもしれない。もしかすると、もっとお腹が空くことになるかもしれない。」
「でもこのままなら、おなかはすいたまま?」
「ああ、きっとな」
グラトニーは考えた。
エドワードの言うことは難しい。難しくて、よく分からない。
分からないが、空腹感が満たされるかもしれないし、もっと飢えることがあるかもしれないというのは理解できた。
そうしていつか、おばあさんと同じ所に行けるのだと言うことも分かった。
もしかしたらそこにはお父様の魂もいるのかもしれない。
いつかそこにたどり着いて、色々な話が出来るのかもしれないと思った。おばあさんがグラトニーに話してくれたように。
それならば、グラトニーの腹は決まりだった。
「人間に、なる」
静かに穏やかな顔で、エドワードは頷いた。
パン、と両手を打ち鳴らし夕日で紅く染まった世界に白い光が走る。
グラトニーは目を閉じた。

アルフォンスは突然の兄の来訪には驚かなかった。大体、兄は大概突発的だ。
むしろ驚いたのはその理由だった。
「……………隠し子?」
まさかとは思うけど。
しかしエドワードは否定さえせずに重々しく頷いた。
「そうだ。」
「そうだじゃないでしょ。どうしてそんな分かり易い嘘吐くの」
「嘘じゃないぞ、ある意味オレの子だからなこいつ」
「…もしかして」
「グラトニーだ。人間になったから今は戸籍も偽造済みでトニー・グラムって名前」
「うん、まあそれは見当付くけど兄さん。でも何でこんなに小さいの?」
おくるみの中ですやすやと眠る赤ん坊を受け取って、アルフォンスは困惑する。
「なんつーか…勢い余って?」
「どういう勢いだよ」
「いやまあ。で、頼みなんだけどこいつの面倒見てくれないか?」
軍務に忙殺されるエドワードが今なお物騒な中央で育てるよりは、リゼンブールでアルフォンスが養育する方が現実的だろう。隣には頼れるロックベル家もある。
本当は自分が責任持って育てたいんだけど、と離れ難そうに赤ん坊に指を握らせて遊ぶ兄に、アルフォンスは苦笑した。
「断る訳ないでしょ。預かるよ、だからもう少し頻繁に帰ってきてよ」
エドワードは申し訳なさそうに「すまん」と呟いた。

その後、リゼンブールですくすくと育ったトニー・グラムは、しっかり者の可愛い奥さんと巡り会い、農場を経営することとなる。
90才で亡くなる前の年まで、村祭りの大食い競争の王座は他の誰にも譲らなかった。

(011105)
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