どんよりと曇った空を眺めながら、考えたことと言えば弟のことと空腹のことだった。
どちらもほとんど本能のようなものだったから、「考えた」と言うよりは「感じた」の方が正しかったかもしれない。
考えた所で結論も状況も変わらない。
この空きっ腹を何とかしなければ飢え死に一直線で、死んでしまえば弟には二度と会えない。
オレが死んで、この体が「かつてオレだったもの」になってしまったら、きっと弟は泣くだろう。
母さんが「かつて母さんであったもの」になってしまった時のように。
アルを泣かせる訳にはいかないし、約束を破る訳にはいかない。
猫は滅多に約束はしないが、した約束は決して破らない。そう言うものだと言うことは幾らオレが子猫でもちゃんと知っている。
かと言ってこのままではのたれ死ぬ。
どうしたもんかな、と何回目かの思考のループに陥っていたその時、目の前に立つ黒いコートの男に気付いた。

母さんが「母さんであったもの」になったのは、数日前のことだった。
鴉が喚くのを聞いてみれば、車とか言う鉄の塊にはねられたらしい。
「母さんであったもの」はもう既に冷たくなってぴくりとも動かなかった。柔らかくもなく温かくもない。
あまりに突然のことで混乱して哀しくてただ泣くばかりだったオレとアルを、「母さんであったもの」を「母さん」たらしめていた何か、が哀しそうに見ていた。
何かはにおいもなく音もなく、触れようとしても触れられない。けれど確かにまだそこにいて、何も感じられないけれども温かかった。
「母さん」
オレは泣くのを止めて、「何か」に向かって呼びかけた。
「何か」は微かに笑ったようだった。
オレとアルが顔を上げたのを確かめると、ふるりと長い尻尾を振って立ち去った。
どこに向かったのかは分からない。
ただ、ひどく明るく温かく、良いにおいのするどこかに向かったのだと言うことは解った。
だからオレも立ち上がり、アルを促した。
「行くぞ、アル。」
「どこに?」
アルも鼻先の滴を振り払うと、ついてきた。その拍子に、2匹同時に腹の虫がぐうっと鳴った。
「まずは腹ごしらえかな。」
「うん、お腹減った。」
「腹が減るのは良いことなんだ、って母さんが言ってたな。」
「言ってたね。生きてる証拠だって。」
「母さんであったもの」をあのままにしておくのはいやだったけど、今のオレたちにはどうしようもなかった。
あれは「母さんであったもの」であって「母さん」じゃない、と自分に言い聞かせることでオレはそのことを意識の奥底に沈めることにした。
当面、意識の最表層にあるのはアルとオレの今日の飯の種だ。
幸い、ここはある程度は大きな街で、人間が大勢住んでいる。
人間が大勢住んでいると言うことは、オレたちみたいな子猫を捕って食うような動物は少ないと言うことだ。
もちろん、危険はそれだけではないから用心するに越したことはない。
母さんをはねた車のようなものもいれば悪逆非道な子供とか言う生き物もいる。
野良猫を捕まえては頭に紙袋を被せたりするらしい。さらには人間の中には猫を棒で殴ったり石をぶつけたりするのもいるという。
餌をくれる人間ときちんと見分けないとひどい目に遭うから、覚えておかなければならない重要なことだった。
気を付けなければならないのは人だけじゃなくて同族もだ。
猫もまた縄張りにうるさい。生活がかかっているから当然のことだ。
おまけに母さんもオレたちもこの街に来てから日が浅い。所謂よそ猫で新参者だ。
地の猫の子なら受け入れられもしただろうが、威嚇されてはいおしまい、だ。
…いや途端に頭に来て突っかかって行こうとしたらアルに止められた訳だが。
「お腹空いてるし無駄な体力使うの止めようよ、兄さん」
ちらり、と雉虎の毛並みを一瞥して付け加える。
「それに、多分あのおじさんをのした所で良いもの食べられそうにないよ。」
「それもそうだな。」
聞こえてない訳はないだろうが、雉虎は「大人の余裕」とやら(あるいは武士の高楊枝かもしれない)で悠然と無視をしてくれた。
背後から、くつくつと笑う声が聞こえた。
「面白いねえ、あんた達。」
別の野良猫が出窓に置かれた植木鉢の間から顔を覗かせて見下ろしていた。
グレー混じりのまだらの猫は雉虎よりもずっと年かさのようだ。日溜まりでぐるぐると喉を鳴らしている。
「面白いから、良いことを教えてあげるよ。良いものを食べたかったら、人間の家に住むことだよ。」
「飼い猫になるって事か?」
「おや。知ってたのかい。なら話は早いね。」
「でも飼い猫になるには飼い猫に生まれなきゃなれないんじゃなかった?」
「ところがねえ、あんた達みたいにちっちゃな子猫なら、可能性があるのさ。」
あたしやそっちのすれっからしじゃあとうが立っちまってて駄目だけどねえ、とまたぐるぐると喉を鳴らす。
「人間達がご主人様面をしてくるのとちょっとばっかり窮屈なのとを除けば、まあ悪くない生活だよ。試してごらんよ。」
そう言って、路地の向こうの通りを指し示す。
「人の通る所で鳴いておいで。そうしたらその気があるのが拾ってくれるよ。」
「…分かった、やってみる。」
「ありがとうございます。」
上機嫌でひげを揺らすまだら猫に、一応の礼を言って路地を通り抜けた。

日が傾いてくると、分厚い雲がにわかに広がって、嘘のような土砂降りの雨になった。
そうなるともう家路を急ぐ人ばかりで、足下の小さな猫に気をとめる者などほとんどいなかった。
雨は冷たいし腹は減るし良いことはない。
「ああもう!一人くらいこっちを見ろよ!」
「兄さんそんなかんしゃく起こさないでよ」
だがしかし。そんな癇癪起こした声が届いたらしい。
『お母さん、子猫だよ』
『あら本当。』
「あ、…子供だ。」
「本当だ。大丈夫かな?」
しゃがみ込んで手を伸ばす子供の手をアルは不安げに嗅ぐ。
小さな手がびしょぬれのアルの頭を撫で、慌ててその母親らしき人間がハンカチを出す。
この子供はむやみやたらに袋を被せたりはしないらしいと判断して、アルも安心して拭かれるがままになっている。
『ママ、この子猫雨の中でかわいそうよ。うちに連れていっても良いでしょ?』
『そうねえ…』
母親は思案顔だ。
「…ああ、そうか。」
「兄さん?」
「人間の子供ってのは、手がかかるもんなんだ。」
そう言っているのをどこかで耳に挟んだ覚えがある。
人間の子供だけでも手がかかるというのに、そこに猫の子供も増えたらそりゃあ人間の母親も大変だろう。
しかも2匹も、と来ればそりゃあ躊躇もするってもんだ。
だが、…1匹ならどうだ?
「オレはやっぱり、飼い猫は性に合わないから別の当てを探すよ。」
「何言ってるの、兄さん!別の当てって何?!」
「お前はこの人間の所へ行け。で、大事にされろ。」
伸ばされようとした母親の手をすり抜けて木立の方へと向かう。
「…きっとその内、会いに行くから。その時には、良いもん食べてつやつやのふかふかになってろよ。」
笑いかけて、そのままくるりと後ろを向いて走り出す。
「兄さん!必ず来てよ!約束だよ!」
了解の合図に尻尾を軽く振る。けれど決して振り返らずに一気に通りを駆け抜ける。
振り返ったが最後、そこから動けなくなるに違いなかった。

それからどの位走ったのか分からない。
脇目もふらずに走っていたら側溝に落っこちて泥まみれになった。
どうにかこうにか這い出して、ぺたりと煉瓦の上に座り込むと途端に疲れが襲ってきた。
いつの間にか雨は小降りになっていて、泥を洗い落としてくれそうにもない。
日もすっかりと暮れて空気も冷え込んできた。
雨の最中もさほど寒さが気にならなかったのは、側にアルがいたからだ。
母さんがいた頃は母さんとアルと、いなくなってからはアルと2匹、ぴったりとくっついていれば温かかった。
疲れと寒さと飢えとを、一気に自覚した。
何よりも、アルがいない。アルがいた時は、そのどれも気にならなかった。
気にならなかったという訳ではないが、耐えられた。
「…それでも、どうにかしないとな。」
アルが側にいないと言うだけで、脚に力が入らない。
けれど、また会うのだと約束したのだ。今は側にいなくても、会いに行かなくてはいけない。
「それが、生きるって事なんだから。」
街灯が点り、垂れ込める雲をぼんやりと照らす。
いつの間にか目の前に立っていた男は動かない。
じっとこちらを見ている。何か迷っているようだった。
何を迷っているのか知らないが、迷うならオレの目の前で悩むな、オレはオレで精一杯なんだ。
内心で毒づいていたら、男は手を差し出して言った。
『一緒に来るか?』
そう来るか。ちょっと意外だった。
でもそれでループが破られたことは確かだ。
オレはなけなしの力を振り絞り、立ち上がった。

(040205)
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